
近年では比較的寒い冬から一転暖かな3月の中旬、宍道湖畔を行くシリーズで欠かせない出雲の地を訪れました。出雲大社への参詣です。春休みのせいか若い女性のグループが目立ちました。知人に防衛庁関係者がいて、出雲のことをよく知っているのに驚いたことがあります。秘匿義務がありますから、明確には話してもらえませんが、陸上自衛隊出雲駐屯地が存在しますので、ここはお察しくださいね。

訳知りの知人から教えて貰った某有名女性ミュージシャンのご実家の旅館と一押し蕎麦屋さん。いつもながら長蛇の列
万一の場合どのように守るか一寸だけ教えて貰いました。仮想敵国が上陸してきたとき、どうその侵略経路を断つか、どこの橋を堕とすか、誰がその任務を負うているかなど。でも結構、核心にまで迫っています。そんなことを聞いてしまうと、やたら周りの山の状況や橋梁、河川敷の状況などが気になります。どうやら、出雲の地とは、古代より平和な縁結びの神の地ではなく、むしろ荒々しい戦の地であったのではないのかと勘繰りたくなりますね。地形を眺めていると、北に島根半島があり、南に奥深い中国山地が控え、そこを源流とした斐伊川が出雲平野を蛇行し宍道湖に注ぎ、同じく出雲平野を貫通する神戸川が日本海に流れ込みます。平野は穏やかで、湾口は日本海に開かれていますが、山地は地形が険しく、観光スポットでもある日御碕灯台に行くのに意外と急峻な行程を経なければなりません。どうやら出雲地域の地学的な考察は、出雲の歴史を紐解くためにも必要なツールのようです。

出雲大社の社殿の周辺に覆われていたのは想像していた細かな玉石ではなく、意外にも粗い砂礫でした。荒ぶる神の源流を想起させます。
出雲の地形を見ると実は相当面白いです。出雲平野は,縄文時代以後に形成されたというのですから,極めて新しい土地と言えます。その主な原因が「斐伊川」と「神戸川」が運んできた大量のマサ(真砂)土なのだそうです。一体に、出雲平野は,斐伊川と神戸川が中国山地から多量の真砂土を流下させ,宍道湖低地帯を埋め立てて形成した三角州平野と言われています。「原日本人」が住んでいたとされる1万年前までは宍道湖も中海も存在していませんでした。現在の宍道湖と中海の形を見ることができるのは奈良時代までかかります。この間、縄文時代前期神戸川河口付近を湾口とする湾ができ、その湾に注ぐ斐伊川河口に巨大な三角州が形成されて行くのです。この時点の斐伊川は,神戸川と同じく西側の日本海が河口でした。江戸時代に発生した大洪水によって,斐伊川が東へ蛇行し宍道湖に直接流れ込むようになったと言われています。このように出雲平野は,斐伊川と神戸川が中国山地から多量の真砂を流下させ,宍道湖低地帯を埋め立てて形成した三角州平野なのです。これは、中国山地を挟んで南部の広島の平野部を連想させます。平野を作りなす原因の大量の真砂土とは何なのでしょうか。それは鉄穴流しの技法によるたたら製鉄が盛んに行われていたという事情があります。このため大量の土砂が崩され谷川や人工的に作られた水路に流し込まれ、真砂土の中に含まれる砂鉄を比重の差を利用して分離させていました。中国山地の真砂土にはチタンの含有量の多い磁鉄鉱だと言われています。このため、硬く粘りのある鉄が生産できたのです。優良な鉄は巨大な需要が発生していたのです。産業の骨格にはやはり鉄の存在は大きいと言わざるを得ません。その一方で、負の面を見なければなりません。江戸時代、芸州広島藩は太田川を濁らせ洪水の原因を作るたたら製鉄を規制したといわれています。松江藩もやはり、治水を最大の課題として抱えていました。江戸時代の寛永年間に発生した大洪水によって,斐伊川は東へ蛇行し宍道湖に直接流れ込むようになりましたが、宍道湖側に三角州が形成され、宍道湖の水位が上昇して洪水が多発するようになりました。鉄穴流しによる残渣物たる土砂は河床に堆積します。豪雨があれば運び出され,河床の上昇は流路の変更と氾濫を導いたことでしょう。また、たたら製鉄は,還元するために燃料として多量の木材が必要です。大量の森林が伐採されました。日刀保たたらの村下(たたら製鉄の棟梁)の方に「炭は選びますか」と尋ねたことがあります。「むしろ雑木の炭の方が良い」と教えていただきました。そして見える限りの山の木を伐りだし、炭を焼くのだと。中国山地の山に登ると、不自然な形状の山といわゆる禿山に出会います。広島県庄原市の吾妻山は典型的な存在です。そして至る所に鉄穴(カンナ)流しの池に遭遇します。時折、痛ましい災害に見舞われます。その原因を考えると、現代のわれわれもその負の遺産を受け継いでいることに気づきます。風化しやすい花崗岩の山に囲まれていることを常に頭に入れておくことが必要です。治山と治水が広域の行政で軽視されてはいけないと思います。ところで、チタンと鉄に関する久保善博刀匠の論考は一聴に値します。久保氏から直接お伺いした経験があります。BUMA8(第八回金属歴史国際会議)での研究発表で、たたら製鉄での銑鉄を生産するうえで、従来不純物であると考えられていた砂鉄中の酸化チタンの存在が実は重要であり酸化チタンを含む砂鉄を赤目砂鉄と定義すべきだと指摘されています。
神話が架空のお話であるという説は、もはや有力ではないと感じます。東方への移動は人類が持つモチベーションの一つだったのかも知れません。人が太陽を崇拝し、その太陽に近づきたいと願い、その太陽が出現する東へと移動する果てに出雲があり、さらに東進し日立に辿りついた。そこは辿り着くべき終着の地だったのでしょうか。出雲の東方に鹿島がある。古流の武道を志す者にとって鹿島神宮、香取神宮は聖地のひとつですが、鹿島神宮の御祭の神「武甕槌大神」は国譲りの交渉に出雲に降り立ったと由緒にあります。関東の各地に出雲の斐伊川にちなんだ氷川神社が多く存在していることも見逃せません。中国山地は鉄の一大生産地だった。その技術を齎した者、その生産物を手に入れた者たちは必然的に覇者に成り得た。そうした仮説も成り立つような気がします。
*島津邦弘(1994)『鉄学の旅』中国新聞社
*中島篤巳(1998)『広島県百名山』葦書房







