長年疑問に思っていたことが氷解する経験って、ありませんか。


<先日、小倉である会議があり、いい機会なので懸案だった河伯洞に寄ってみました。そこは作家火野葦平の旧宅が記念館として公開されているのです。火野葦平の三男の玉井史太郎氏が館長を勤められていた時に、一度お話をさせていただく機会がありました。今回ぜひお会いしたかったのですが、氏は残念ながら昨年1月に亡くなったということでした>
もう十年も前のことになるのですが、職場の同僚の実家でご不幸があったと言う知らせを受けて葬儀に参列したことがありました。ご自宅で葬儀をされていて、土地勘もなく、カーナビに誘導されて辿り着いたのです。そこは広島県庄原市の峯田と言うところでした。参列してびっくりしたのは、玄関先に火野葦平の母マンの生家と言う碑文があったことでした。その碑文を見た瞬間、長年にわたって脳裡に巣くっていた蟠りが晴れたのでした。
蟠りの原因は、私の17歳ごろの読書体験で、あまりにも心もとない記憶しかなかったからなのですが、火野葦平の自伝的小説『革命前後』という作品の一部を切り取って、ある奇妙な記憶だけが保持されたままの状態だったのです。その奇妙な記憶とは、先の大戦が終戦して間もない広島の駅で日本に帰還した復員兵たちに囲まれて、理不尽な胴上げをされると言う場面がいつまでも記憶に残っていたのです。どうして火野葦平が広島の駅に降り立つ必要があったのか。私の人間関係の理解が不足しているため、前後関係の記憶が消されて、その場面のみが記憶に残っていたのです。当該書物を、我が家のいつまで経っても未整理状態の倉庫に積み重なっている段ボールの底から掘り出してきて、再読してみると相当記憶が曖昧であることが分かりました。胴上げされたのは、闇米の商いを取り締まっていた警察官であり、火野葦平自身の胴上げは未遂に終わっていた描写になっています。自らがモデルの主人公『辻昌介』が彼の母マンの実家である庄原に疎開している妻子を訪ねた帰り、芸備線から博多行きの山陽本線に乗り換えるために灰燼と化した広島の駅に降り立った時の場面です。
・・・「辻昌介さんではありませんか。そうでしょう?」「辻さん、あなた、敗戦の責任を感じとるでしょうな?」と、復員兵に詰問される状況が訪れる。「は?」「もちろん、感じとるでしょう。感じずに居られるわけがない。あんたはわしら兵隊の王様で、あんたほどええ目に会うた人はないからね。わしら兵隊は一銭五厘のハガキでなんぼでも集められる消耗品じゃったが、あんたは報道班員とやらで、戦地で文章書いて大金儲け、『麦と兵隊』の印税で家建てたとか、山林を買うたとか、大層景気のええ話じゃ。そんなとき、わしら、食うや食わずで泥ンコ生活、わしの弟はレイテ島で戦死してしもうた。あんたが、いつ、『銭と兵隊』を書くかとわしら考えとったんじゃ」「おいおい、止めとかんか」と、兵隊の後の列からどなる者があった。小柄な復員兵が昌介に食ってかかりはじめてから、復員兵たちはいつの間にか、二人のまわりに垣を作っていた。昌介は、シッカリと唇をとじ、うなだれたまま立っていた。背後に味方を得たように、なおも、小柄な兵隊は、「辻さん、敗戦についてのあんたの責任は小さくはないですよ。わしら、あんたに騙されて戦うたようなもんじゃ。あんたの書いたものを愛読はしたけんど、今から考えてみりゃあ、ええころかげんのことばっかり書いて、人のええわしら兵隊をペテンにかけとった。あんたが勝つ勝つというもんじゃから、わしらほんとうかと思うて、一所懸命にやって来たんじゃが、ヘン、こんなことになってしもうて。あんた、この責任をどうするつもりですか。あんた、兵隊の服を着とったけんど、軍閥の手先じゃったとでしょう。どうですか」返事が出来なかった。といって、弁解する気もなかった。この兵隊とこんなところで議論したくなかった。どう思われてもかまわないから、この場から逃げた方が良いと考えていると「辻軍曹どんをどうあげしようか」と、さっきの中年兵がいった。「それがええ」と、昌介を詰問した兵隊が答えた。ワーッと兵隊の列が波のように押し寄せて来た。・・・・
兵隊の立場で常に書いてきたつもりだった。そしてそれは兵隊たちに支持されてきたと思い込んでいた。だが実は逆であったことの絶望感が語られる。火野葦平が、社会主義的思想の持主であったことはよく知られている。昭和初期の玉井組という沖中仕の親方であり、若松港沖仲仕労働組合を結成し、その書記長となり、洞海湾荷役のゼネストを決行する。官憲による身柄の拘束は当時では疑問の余地はない。正義を貫き行動する。アフガニスタンで亡くなったぺシャワール会の中村哲医師は火野葦平の妹の子であることもよく知られています。その義、自らの生命を顧みることなく、ただ義を貫く。中村哲医師は国際平和のためのあらゆる組織の欺瞞を見せるように、ただ生命の糧である水の噴泉を祈ったように思える。乾いた荒涼たる砂漠の砂地に一人の人間がなせるのは僅かな湿りを齎すだけだ。熱い太陽が昇れば瞬時にその痕跡さえ残らないだろう。それは火野葦平が描いた兵隊たちに重なる。


火野葦平の母マンは、火野葦平を産み中村哲医師の温床となった。

この書が火野葦平の遺書のように感じてなりません。
中川一政氏の装幀と相俟って、現代では実現しない稀有の書籍のように思えます。
*火野葦平(昭和35年)『革命前後』中央公論社





