黒猫の『じじ』は愛人タイプの猫。彼女は男の生活に微妙に馴染み、癒しを適当に持ち込み、同時に苦しみを齎す。どうにも世話が焼ける。仕事をしていてもいつも気になる。その癖、彼女は決して自分の生活パターンは崩さない。どうです。充分愛人でしょう。しかも美しい容貌と黒猫のようなしなやかな肢体を持つ。本当に黒猫なのだから当然だけれど。こう書いていると、トルーマン・カポーティのBreakfast at Tiffany’s(ティファニーで朝食を)を思い出した。カポーティの描くホーリー・ゴライトリーは孤児だった。『じじ』ちゃんもね。

出会いというと、どこともなく現れて、きっと飼い主がいるに違いないと様々な手を尽くして探したのですが見つからず、いつの間にか彼女の存在が生活の一部になっていました。彼女は、そう保護猫なのです。私は連日深夜に及ぶ仕事の真っ盛りで、零時過ぎに帰宅すると、当然、家族は全員寝静まっている中で、私の帰って来る音を聞き分けて、いち早く玄関で前足を揃えて出迎える。一度たりとも息を弾ませたり、急いで出て来た風情は決して見せることはありません。私は、彼女を膝にのせて遅い夕食を摂る。それが日常となっていました。問題は彼女の性格です。彼女は爪を磨き、和室の聚楽壁に貼りつき滑り降りるスリルが好き。某有名作家の手になる襖に自分の爪痕を残すのが趣味。子どもの飼っていたハムスターが血だらけの無残な姿で発見されるのは、時間の問題でした。水槽の蓋を外すのは朝飯前で、水の中に片手を肩までつけて水槽をかき回し、爪に引っかかった熱帯魚を辺りに放り投げます。息も絶え絶えの魚を拾い上げ水浸しになった床を拭く姿を想像してください。その内、誰かの子を身籠るのは必然の成り行きでした。産まれて来たのは三匹の黒猫。『ここ』男の子、『すず』女の子、『もも』女の子。それぞれ数奇な運命を辿ったのですがそのお話はまたの機会に譲るとして、彼女は子どもたちの世話は周りに預け、たいした子育てもしないのも頷けるようなお嬢様然とした態度とマイペースぶりです。でも、突然、別れの時が来るのです。
西日本の梅雨末期は、洪水のオンパレード。治水対策は毎年の行政課題です。その年の梅雨は特に激しかった記憶があります。ゲリラ豪雨と言われる現象が至る所で見られるようでした。彼女は何かに憑かれたように、頻繁に外出します。胸騒ぎのような嫌な予感が暫く続いていました。なるべく外出しないように言い含めてはいたのですが。その日、朝から雨が降り続きます。一時間に30㎜から50㎜の災害が惹起されるような激しい雨が降り注ぎます。高台にある家なのでそこから外に出ると開渠の側溝には夥しい水が流れ込みそこにもし彼女が佇んでいたのならと不安が募ります。人間でも側溝に落ちると重大な事故に繋がります。何日も帰ってきません。側溝に潜んでいた姿を見たことがありましたから、その習性を考えると、あっという間に流され、近くの川にまで到達しても不思議ではありません。勿論、手は尽くしましたがついに帰ってきませんでした。『ティファニーで朝食を』の原作は、オードリー・ヘプバーン主演の映画とは全く違うエンディングを迎えます。そのエンディングの一説を『じじ』へのレクイエムとして奉げる。「アフリカの掘立小屋だろうがなんだろうが、ともかくどこか安住の地があってほしいと私は心の中で深く祈った」


トルーマン・カポーティ:スキャンダラスで、ピカレスクでノイジー。嫌な人間の典型。だがそのイメージの裏に隠された孤独の影と繊細な筆致は天才作家の一人と認めざるを得ない。
*Truman Capote(1958).Breakfast at Tiffany’s:Random house.Inc
瀧口直太郎訳(1968)『ティファニーで朝食を』㈱新潮社
* Larence Grobel(1985).Conversations with Capote :New American Library
川本三郎訳(1988)『カポーティとの対話』㈱文芸春秋





